もくようび
りんねに髪を結ってもらったことがあるな、と嘘か本当か分からない記憶を辿っていた。なぜだろうと思ったら、りんねに髪を切ってもらっていた。
またいつもの夢のようだ。人間が髪を切るためにいろいろな苦労をしているのを知ったとき、髪が伸びるというのは大変だなと思ったことがある――この記憶は本物だ。
そんな人間がするみたいに、長いケープを巻かれた僕が鏡の中にいる。以前りんねの瞳に映っていた時に比べると、少し大人びた顔立ちをしているように見えた。膝に置いていた手を少し持ち上げて視線を落とす。泥を掘ったあの時よりも骨太だ。
僕たちの、使者の姿はこんな風に滑らかには変化しない。ただ見せたい姿に変換してみせるだけだ。こんな、人間のようには。
思考もろとも断ち切るように耳元で小気味よく金属音が響いた。
どこをどう切ってくれていたのかはよく分からないが、うまくいっているのだろう、鏡越しに見えるりんねの表情は満足気だ。髪型が大きく変わったようには見えず、三つ編みが解かれていること以外はいつも通りのように思われたが、これが良いということならば僕も悪い気はしない。
ざくりざくりとハサミが髪を切るその音は初めて聞くもので、やがてリズミカルになるそれらは、間違いなくりんねが生み出す音楽のひとつだった。夢の世界に音楽があるのは久しぶりではないだろうか。ハサミは立派な楽器なのだなとも思いながら、浸る。なんだか夢の中なのに眠くなってきてしまった。
眠気を払うつもりでじっくりと瞬きをしたら、次に目を開いた時には僕の視線は天を向いていた。リクライニングの椅子に瞬間移動したのか、身体が横たえられているのだ。髪が襟足のところから掬い上げられている感覚がする。
「結構切ったから、流さなきゃね」
姿の見えない彼女の声、次いで蛇口をひねる音が小さく響いてから、シャワーを手に持った彼女が視界にひょこりと入ってきた。毛先が重くなる感覚を味わっていると、忘れてた、と呟いたりんねがそっと僕の目に柔らかなタオルを載せ、視界が優しくブラックアウトする。
「お湯、熱くないかな」
きっと口角は上がっているのだろう。見えずとも分かるような問いかけ方だった。平気だよ、と答えた自分の声も自然と柔らかいものになった。黄色い声をもう少し重く深い色にしたらこうなるんじゃないか、という程度に。
「シャインの髪は猫の毛みたい。冷たそうな色をしてるから、もっと硬いのかと思ってた」
一度湯を止めて、僕の髪を絞って水気を軽く取りながらりんねが語る。
「あちこち元気にハネてるから尚更、ね。でも、こうやってお湯で流せば落ち着くし、手に当たっても痛かったりはしないんだ」
半分ひとりごちるみたいな言い方に、塞がれた視界がもどかしくなる。どんな目をしてそんなことを言っているのか知りたかったし、りんねの髪に触れたかった。丸く波打つそれはきっと柔らかいけれど、短く揃えられた襟足はもしかしたら違う感触がするのだろうか。
何か言葉を返してもよかったけど、なんとなく憚られた。目を閉じているせいかもしれない。どうにも唇を開く気になれない。
りんねは優しい手つきで僕の頭に触れ続ける。そのぬくもりに混ざって冷たい感覚がしたかと思えば、シャカシャカと音を立てて泡立て始めた。人間たちが入浴するときにやっているやつか、とすぐに合点がいく。
彼らはなぜか、あの風呂という場所が好きみたいだった。今の僕ならその気持ちが分かるのだろうか。想像はつかなかった。耳に近いところで音を立てられているから、音が耳に入ってきているのか、頭蓋を通じて直接身体の内に響いているのか分からなくなる。そんな心地ならば理解できたけれど。
再びお湯が頭にかけられて、せっかく立てた泡が流されていくのを感じる。小さなシャボン玉の集合体はきっと煌めいているんだろう。見られずに濁流に消えることを少し寂しく思った。
シャワーをかけられたまま、りんねの指が僕の濡れた髪を梳く。ゆっくりと、優しく。無理に引っ張って髪が痛まないようにか、あるいは僕が痛がらないようにか。それがなんだかもどかしいような、くすぐったいような気がして、先程の寂しさも一緒に流されていった。襟足を流すべく、うなじに手が添えられたときには、一層そうっと優しく触れられた。
気がついたら元の席に帰って、髪の毛もすっかり乾かされていた。ドライヤー一本では大変だったに違いない。
「外に林檎売りが来てたから、あとで一緒に買いに行きましょう。金の林檎なのよ」
金色にも似た琥珀色の櫛で銀糸を梳きながら、疲れを知らない顔でりんねが言う。そのまま一房手に取ると、するすると慣れた手つきで三つ編みを作っていく。そのとき僕はようやく、鏡越しに見るりんねの顔の横で青い三つ編みが揺れていることに気が付いたものだから、思わず面食らってしまった。
彼女の笑顔を鏡越しに見つめ、ああ、今までで一番良い夢だった――そう思いながらその世界に別れを告げたから、金の林檎なんてものは食べずにすんだ。
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