﨑津教会は熊本は天草にある、潜伏キリシタン関連遺産のひとつであり、キンプラに登場する聖地のひとつです。
そんな﨑津をキンプラ公開記念日である6月10日に訪ねてきた記録を、今日という日に寄せて、ここに綴ります。
前日譚。
天草は公共交通のみで訪れるにはあまりにも遠いので、福岡で一泊しました。
それに併せてアレク生誕上映ラス日に滑り込ませていただき、タンバリン応援を初体験しました。シャワー上映ばりに手が忙しくて面白かった。
他、響ワタルさんが滑ってたらしいリンクのあった建物も訪問してみたり。
(荊りんねがジンギスカン好き=りんねは北海道に縁があったかもしれなくて、シャインは福岡に縁があるの、好きな対称性です)
あ、あと、博多は空港が近いので街並みのめっちゃ近くの空を飛行機が飛んで行きます。好きなポイント。
当日はほぼ始発の新幹線で福岡からまずは熊本へ。なんとあっという間の30分。
…というところでまさかの新幹線に遅れ発生。
天草に渡るバスに遅れると行程がすべてダメになるため、かーなーり焦りましたが、通常より早く走ってくれたのか到着時には少し遅れを取り戻し、無事に天草行きのバスに乗車できました。
新幹線の車中、マップアプリと時計と車窓の風景を血走った目で見つめていたのも良い思い出です。JR九州さんありがとう。
熊本駅はとても綺麗でした。
バスのロータリーもとても分かりやすく、特に乗り場ごとに液晶の案内があったのが便利でした。
天草の中心地へ、バスで2時間半ほど揺られます。途中のバス停で降りる人に対して運転手さんが「自転車来てるから気を付けてくださいね」ってアナウンスしてたのを覚えてます。良い人だあ。
鉄道や作りかけの大きな道路の高架を見たりするうちに山あいに入っていき、そのうちに海岸線へ。この日は雨は降っていませんでしたが晴れてもおらず、その影響か海は一面の霧に覆われていました。
晴れていたら向こう岸が見えたのか、考えつつ目を凝らしましたが、とうとう対岸らしき影を見つけることはできませんでした。
それから、熊本の風景には南国らしさが垣間見えました。高知に少し似ている。緯度も近いですもんね。地元ではまだ蕾の紫陽花がそこかしこに咲いているのを見て、梅雨がもうそこまでやってきている土地なんだな、とも感じました。
天草の中心地は本渡といいます。こちらのバスセンターから更に路線バスに乗り換えて南下していきます。
バスセンターで路線バスの一日フリー券を購入。ほんの少しですがバス代が浮きました。
窓口の方が親切に各地を巡るツアーバスがあることを案内してくださったのですが、どうしても今回はひとりで行きたかったのでご遠慮しました。
次はこっちで行こうと思います。だってマジで確実にこっちの方が楽だし早いし安いしで良いことしかないので。
じゃあなんでわざわざめんどくさいルートを今回取ったのかというと、自分の好きなタイミングで足を止めたかったから。あと、ひとりで浸りたかったから。オタクってなんてめんどくさいんだろうね。
少し間を置いたら本渡から南下し、一路﨑津…ではなくまずは乗り換え地点へ。着いたバス停には季節外れのサンタ人形がいました。田舎にありがちな謎の風景だ。
乗り換え待ちの時間が30分ほどあったので周りを散策。一応何もないわけではないのです。コレジョという、宣教師を育てるための学校の跡地に草むらかき分けて行ってみました。
一応、世界遺産の一部を勝手に聖地にさせていただいているオタクとしては、何も知らずに行くわけにはいくまい、と思い隠れキリシタンの歴史は(ざっくりとではありますが)本で勉強してから行きました。なので普通に興味深かったです。
信じたいものを禁じられ、それでもなお信じ続けるというのはどういう気持ちなんだろう、と改めて考えた時、前日の、声を出してはいけなくなってしまった応援上映のことを思わずにはいられませんでした。
乗り換えるバスがもう少しで来るというころ、バス停そばの木にとても綺麗なオレンジと青の鳥が二羽いて、鳴きながらはばたきあっていたのがとても綺麗でした。
あの青さは忘れられない。イソヒヨドリという名前は帰りの新幹線で知りました。
﨑津教会行きのバスには私以外の乗客がおらず、ありがたく貸切らせていただきました。
山道やトンネルをたくさん抜け、やがてまた海に出て、最後にひとつトンネルを抜けて、とうとうその姿が遠くに見えました。
熊本駅を8時に出発し早5時間。ようやく﨑津教会、ヒロ様のふるさとに到着です。
教会の周りは見事な、これぞ港町というような町でした。一面に漂う潮の香りと、山から響くトンビの声。
私も港のある町(の山中)の出身なんですが、故郷よりよっぽど港町然しているなあ、と感じるくらいに。海の色も綺麗で違って見えた。
とはいえ山と海に囲まれた、とても小さな集落です。観光地ではあるものの、迷惑をかけてはいけない!という緊張感はずっと抱えていました。ぬいぐるみを…人目に触れさせてはいけない…!!
まずは周囲をじっくり散策。教会の前の道を海側に行った先、どん詰まりにあたるところに休憩所みたくテーブルと椅子があったのがなんか好き。
まばらですが他の観光客の方もおられました。平日にしては多いのでは?と感じました。家族連れのお子さんが野良猫を追い回していてかわいかった。港町なので猫もたくさんいました。観光客がエサをやるのか、やたらに人懐こかったです。
教会の内覧には事前予約が必要、と出発前に知り予約をしていたのですが、知らない標準語のおじさんが「いま中入れるみたいですよ」と教えてくれました。
あれ?予約いるのでは…?と戸惑いつつ、一応予約した時間に入ろうと思い向かいにある資料館の展示を拝見。柱の中の隠しメダイが印象的でした。あと古い家屋特有の二階がなんとなく怖い現象久しぶりに出くわした。
予約の時間を迎え教会内に失礼すると無人。OH無人。予約ってなんだったんだ。
内部は撮影不可なのですが中の写真を使ったポストカードを販売されていて有難く買わせていただきました。棺桶に入れよう(すぐ重くなるオタク)
やんぷりやプリララのシナリオを思い出していろいろと考えました。どこまで正史と思って良いのか分からないし、プリララのシナリオはつらくてあまり繰り返し読んではいないのですが。
さて、行きの旅程が余裕がなかったということは帰りも同様で、これに乗れないと家に帰れないというバスの時間まではなんと2時間しかありません。
教会から出て周囲の人が少し減っていたので、本編の映像と見比べながら同じアングルをすみやかに探し撮影(ありがとうdアニ)し、もうひとつのミッション、ヒロ様とお母さんが話していたあの公園訪問へ移ります。
教会の裏手にある展望公園で、どこかから山沿いに上がっていくようになるのですが、なんとこの公園に行ける道はグーグルマップに載っていません。
商品を探す時に店員さんに尋ねないことに定評のある私、無謀にもまずは自力で探しました。全然明後日の方向に行きました。嗚呼貴重な時間が。虚空を見つめる謎の野良猫という収穫しか得られていない。
引き返す時に教会の鐘の音が聞こえました。14時の鐘の音、澄んだきれいな音でした。
反省してそのへんでたむろしていて観光客に話しかけてくれる気さくな地元の人に尋ねたところ、諏訪神社の境内の奥に公園に至る道があるとのこと。まあ一回間違えた時点でそんな気はしてた。
諏訪神社は禁教時代にキリシタンの方がこっそり礼拝をした場所。そこに上がるだけでも結構な勾配の石段があるんですが、さらにそこから上がることなんと500段。
あんなしょんぼりした状態で上がったのか?この石段を……?お母さんも……?
マジでエリートたちにはいっぺん上がってみてほしい。すごかったです。走らなくても人間は息が切れるんだな~。
展望公園は無人だったので、休憩がてらぬいを出してあちこちを撮影しました。ちょっとオバレの例の公園みたいな作りの部分もあったりして偶然にニヤリ。
上から見る﨑津はまた圧巻です。そしてここ「チャペルの鐘展望公園」というだけあって、鐘が置いてあります。もちろん記念に鳴らしました、が、鐘は鐘でもなんかこう、カランカランじゃなくてカラーーーーーーーーン!!ってなるタイプの鐘で笑ってしまった。私の鳴らし方があかんかったんでしょうか。
こう、「プリズムショー…辞めるの?」\やめなーーーーーい!!(カラーーーーーン!!)/って感じね。
ちょうど降りる時に次なるチャレンジャーとすれ違ったんですが、その人達が登ったであろうタイミングでやっぱりカラーーーーーン!って鳴ってたから誰でもああなるんだと思います。
神社までまた降りてきたところで、最初に見た猫を追いかけていた女の子とすれ違いました。今度は野良猫を引き連れていました。
明るい茶色の毛の猫で、さっき見た虚空ガン見猫に似てるなと思い見ていると、私の足にすりついてきました。撫でても何もしないよ、と女の子が教えてくれました。
行っておいで、バイバイ、と足でちょいちょいしつつ声をかけると、ニャアと一鳴きして去っていきました。なんだか不思議な体験でした。
最後に降りたバス停とは違うバス停まで行って遠方からのアングル写真を回収しよう、と歩いている時、通りすがりのおばさまが服装を褒めてくれました。
今の自分のファッションセンスはプリティーシリーズあってのものだと思っているのですごく嬉しかった。これがヒロ様の故郷で、キンプラ公開の大事な日に、っていうのが特に。
帰りのバスもやっぱり貸し切りでした。帰路はひたすらに胸がいっぱいで、ふわふわとしながらの旅でした。
なんだか一度来たらそれが最後で、この日がまるであの日の幕張のような、特別で緊張する日になる気ばかりがしていたんですが、それがほぐれた心地でした。素直にまた来たいと思えたし、良いことしかありませんでした。
ありがとう。ヒロ様のふるさとを好きになれて嬉しかったです。
本渡から熊本に行くバスまでは少し時間が空くので、早いのか遅いのか謎の食事を取り、お土産を吟味。
老舗っぽいお土産屋さんで店主のおじさんが見立ててくださいました。
驚いたのがその時に、今日の飛行機が飛ばなかったことを教えられたこと。霧のせいとのこと。
天草―福岡間は日に数本ではありますが飛行機の便が出ています。陸路より遥かに早いので初めはこちらのルートを予定していたのですが、上映スケジュールを待つことにした結果、早割の時期が過ぎて予算オーバーしたので陸路に切り替えたのです。
つまりせっかくだから再上映を見てえぞという強欲なオタク精神がプラスに働いたと…強欲で良かったー!!
最後に黄薔薇を3本花屋さんで買って、バスと新幹線を乗り継いで旅程はすべて終了。
あっという間の夢のような時間でした。次は温泉も入るぞ。
ここからは現地に行ったからこその本編の考察。
ヒロ様は東京からどうやって﨑津に帰ったのか。
まず新幹線で東京から福岡に向かい空路で天草に向かうか、新幹線で熊本まで来てから陸路で天草に向かうか、の二択。
陸路は私が行ったバス乗り継ぎルートか、同じ道程をタクシーで行くか、になりますが、どちらも正直傷心の人間が行くには現実的ではないかなと。バスは計画性が必要だし、タクシーは…そもそもあの距離を走るのか?
じゃあ空路なのかな、と思ったところで私があの日知った空の便は不安定ってことがミソになります。
もしかしたらあの時ヒロ様は、飛行機が出るか出ないかある種の賭けをして福岡まで行ったんじゃないか、とか。ダメだったら帰ろう、と思いながら。そう考えるとあのシーンの深みが増すように思います。
バイプリの浜辺のシーンも違って見えるようになりました。
あれだけ海に囲まれた町で幼少期を過ごした人が、不安な時に海を見つめているということ。
エデロ寮に教会があることも数奇だなあと思います。
﨑津教会で買ったポストカードの封筒、裏には聖書の言葉が書かれています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」ヒロ様にとってふるさとは多分、重荷を降ろせる場所なんじゃないか…と考えました。
あとヒロ様のお母さんがあの話をするためにあのクソ長ヤバ石段を登らせてまで展望公園へ行ったのは、ヒロ様のお父さんとの思い出の場所だったりするのかな…とか妄想したり。
デートスポットっぽさがあるので。つまりあの石段をデートで登れる夫婦からキングが生まれている。納得だぜ。納得なので早くお父さんのこと教えてください。嘘ですやっぱり今のままでいいです。嗚呼複雑なオタク心。
25歳もすこやかであらんことを祈り、この記事は終わりとします。畳む
そんな﨑津をキンプラ公開記念日である6月10日に訪ねてきた記録を、今日という日に寄せて、ここに綴ります。
前日譚。
天草は公共交通のみで訪れるにはあまりにも遠いので、福岡で一泊しました。
それに併せてアレク生誕上映ラス日に滑り込ませていただき、タンバリン応援を初体験しました。シャワー上映ばりに手が忙しくて面白かった。
他、響ワタルさんが滑ってたらしいリンクのあった建物も訪問してみたり。
(荊りんねがジンギスカン好き=りんねは北海道に縁があったかもしれなくて、シャインは福岡に縁があるの、好きな対称性です)
あ、あと、博多は空港が近いので街並みのめっちゃ近くの空を飛行機が飛んで行きます。好きなポイント。
当日はほぼ始発の新幹線で福岡からまずは熊本へ。なんとあっという間の30分。
…というところでまさかの新幹線に遅れ発生。
天草に渡るバスに遅れると行程がすべてダメになるため、かーなーり焦りましたが、通常より早く走ってくれたのか到着時には少し遅れを取り戻し、無事に天草行きのバスに乗車できました。
新幹線の車中、マップアプリと時計と車窓の風景を血走った目で見つめていたのも良い思い出です。JR九州さんありがとう。
熊本駅はとても綺麗でした。
バスのロータリーもとても分かりやすく、特に乗り場ごとに液晶の案内があったのが便利でした。
天草の中心地へ、バスで2時間半ほど揺られます。途中のバス停で降りる人に対して運転手さんが「自転車来てるから気を付けてくださいね」ってアナウンスしてたのを覚えてます。良い人だあ。
鉄道や作りかけの大きな道路の高架を見たりするうちに山あいに入っていき、そのうちに海岸線へ。この日は雨は降っていませんでしたが晴れてもおらず、その影響か海は一面の霧に覆われていました。
晴れていたら向こう岸が見えたのか、考えつつ目を凝らしましたが、とうとう対岸らしき影を見つけることはできませんでした。
それから、熊本の風景には南国らしさが垣間見えました。高知に少し似ている。緯度も近いですもんね。地元ではまだ蕾の紫陽花がそこかしこに咲いているのを見て、梅雨がもうそこまでやってきている土地なんだな、とも感じました。
天草の中心地は本渡といいます。こちらのバスセンターから更に路線バスに乗り換えて南下していきます。
バスセンターで路線バスの一日フリー券を購入。ほんの少しですがバス代が浮きました。
窓口の方が親切に各地を巡るツアーバスがあることを案内してくださったのですが、どうしても今回はひとりで行きたかったのでご遠慮しました。
次はこっちで行こうと思います。だってマジで確実にこっちの方が楽だし早いし安いしで良いことしかないので。
じゃあなんでわざわざめんどくさいルートを今回取ったのかというと、自分の好きなタイミングで足を止めたかったから。あと、ひとりで浸りたかったから。オタクってなんてめんどくさいんだろうね。
少し間を置いたら本渡から南下し、一路﨑津…ではなくまずは乗り換え地点へ。着いたバス停には季節外れのサンタ人形がいました。田舎にありがちな謎の風景だ。
乗り換え待ちの時間が30分ほどあったので周りを散策。一応何もないわけではないのです。コレジョという、宣教師を育てるための学校の跡地に草むらかき分けて行ってみました。
一応、世界遺産の一部を勝手に聖地にさせていただいているオタクとしては、何も知らずに行くわけにはいくまい、と思い隠れキリシタンの歴史は(ざっくりとではありますが)本で勉強してから行きました。なので普通に興味深かったです。
信じたいものを禁じられ、それでもなお信じ続けるというのはどういう気持ちなんだろう、と改めて考えた時、前日の、声を出してはいけなくなってしまった応援上映のことを思わずにはいられませんでした。
乗り換えるバスがもう少しで来るというころ、バス停そばの木にとても綺麗なオレンジと青の鳥が二羽いて、鳴きながらはばたきあっていたのがとても綺麗でした。
あの青さは忘れられない。イソヒヨドリという名前は帰りの新幹線で知りました。
﨑津教会行きのバスには私以外の乗客がおらず、ありがたく貸切らせていただきました。
山道やトンネルをたくさん抜け、やがてまた海に出て、最後にひとつトンネルを抜けて、とうとうその姿が遠くに見えました。
熊本駅を8時に出発し早5時間。ようやく﨑津教会、ヒロ様のふるさとに到着です。
教会の周りは見事な、これぞ港町というような町でした。一面に漂う潮の香りと、山から響くトンビの声。
私も港のある町(の山中)の出身なんですが、故郷よりよっぽど港町然しているなあ、と感じるくらいに。海の色も綺麗で違って見えた。
とはいえ山と海に囲まれた、とても小さな集落です。観光地ではあるものの、迷惑をかけてはいけない!という緊張感はずっと抱えていました。ぬいぐるみを…人目に触れさせてはいけない…!!
まずは周囲をじっくり散策。教会の前の道を海側に行った先、どん詰まりにあたるところに休憩所みたくテーブルと椅子があったのがなんか好き。
まばらですが他の観光客の方もおられました。平日にしては多いのでは?と感じました。家族連れのお子さんが野良猫を追い回していてかわいかった。港町なので猫もたくさんいました。観光客がエサをやるのか、やたらに人懐こかったです。
教会の内覧には事前予約が必要、と出発前に知り予約をしていたのですが、知らない標準語のおじさんが「いま中入れるみたいですよ」と教えてくれました。
あれ?予約いるのでは…?と戸惑いつつ、一応予約した時間に入ろうと思い向かいにある資料館の展示を拝見。柱の中の隠しメダイが印象的でした。あと古い家屋特有の二階がなんとなく怖い現象久しぶりに出くわした。
予約の時間を迎え教会内に失礼すると無人。OH無人。予約ってなんだったんだ。
内部は撮影不可なのですが中の写真を使ったポストカードを販売されていて有難く買わせていただきました。棺桶に入れよう(すぐ重くなるオタク)
やんぷりやプリララのシナリオを思い出していろいろと考えました。どこまで正史と思って良いのか分からないし、プリララのシナリオはつらくてあまり繰り返し読んではいないのですが。
さて、行きの旅程が余裕がなかったということは帰りも同様で、これに乗れないと家に帰れないというバスの時間まではなんと2時間しかありません。
教会から出て周囲の人が少し減っていたので、本編の映像と見比べながら同じアングルをすみやかに探し撮影(ありがとうdアニ)し、もうひとつのミッション、ヒロ様とお母さんが話していたあの公園訪問へ移ります。
教会の裏手にある展望公園で、どこかから山沿いに上がっていくようになるのですが、なんとこの公園に行ける道はグーグルマップに載っていません。
商品を探す時に店員さんに尋ねないことに定評のある私、無謀にもまずは自力で探しました。全然明後日の方向に行きました。嗚呼貴重な時間が。虚空を見つめる謎の野良猫という収穫しか得られていない。
引き返す時に教会の鐘の音が聞こえました。14時の鐘の音、澄んだきれいな音でした。
反省してそのへんでたむろしていて観光客に話しかけてくれる気さくな地元の人に尋ねたところ、諏訪神社の境内の奥に公園に至る道があるとのこと。まあ一回間違えた時点でそんな気はしてた。
諏訪神社は禁教時代にキリシタンの方がこっそり礼拝をした場所。そこに上がるだけでも結構な勾配の石段があるんですが、さらにそこから上がることなんと500段。
あんなしょんぼりした状態で上がったのか?この石段を……?お母さんも……?
マジでエリートたちにはいっぺん上がってみてほしい。すごかったです。走らなくても人間は息が切れるんだな~。
展望公園は無人だったので、休憩がてらぬいを出してあちこちを撮影しました。ちょっとオバレの例の公園みたいな作りの部分もあったりして偶然にニヤリ。
上から見る﨑津はまた圧巻です。そしてここ「チャペルの鐘展望公園」というだけあって、鐘が置いてあります。もちろん記念に鳴らしました、が、鐘は鐘でもなんかこう、カランカランじゃなくてカラーーーーーーーーン!!ってなるタイプの鐘で笑ってしまった。私の鳴らし方があかんかったんでしょうか。
こう、「プリズムショー…辞めるの?」\やめなーーーーーい!!(カラーーーーーン!!)/って感じね。
ちょうど降りる時に次なるチャレンジャーとすれ違ったんですが、その人達が登ったであろうタイミングでやっぱりカラーーーーーン!って鳴ってたから誰でもああなるんだと思います。
神社までまた降りてきたところで、最初に見た猫を追いかけていた女の子とすれ違いました。今度は野良猫を引き連れていました。
明るい茶色の毛の猫で、さっき見た虚空ガン見猫に似てるなと思い見ていると、私の足にすりついてきました。撫でても何もしないよ、と女の子が教えてくれました。
行っておいで、バイバイ、と足でちょいちょいしつつ声をかけると、ニャアと一鳴きして去っていきました。なんだか不思議な体験でした。
最後に降りたバス停とは違うバス停まで行って遠方からのアングル写真を回収しよう、と歩いている時、通りすがりのおばさまが服装を褒めてくれました。
今の自分のファッションセンスはプリティーシリーズあってのものだと思っているのですごく嬉しかった。これがヒロ様の故郷で、キンプラ公開の大事な日に、っていうのが特に。
帰りのバスもやっぱり貸し切りでした。帰路はひたすらに胸がいっぱいで、ふわふわとしながらの旅でした。
なんだか一度来たらそれが最後で、この日がまるであの日の幕張のような、特別で緊張する日になる気ばかりがしていたんですが、それがほぐれた心地でした。素直にまた来たいと思えたし、良いことしかありませんでした。
ありがとう。ヒロ様のふるさとを好きになれて嬉しかったです。
本渡から熊本に行くバスまでは少し時間が空くので、早いのか遅いのか謎の食事を取り、お土産を吟味。
老舗っぽいお土産屋さんで店主のおじさんが見立ててくださいました。
驚いたのがその時に、今日の飛行機が飛ばなかったことを教えられたこと。霧のせいとのこと。
天草―福岡間は日に数本ではありますが飛行機の便が出ています。陸路より遥かに早いので初めはこちらのルートを予定していたのですが、上映スケジュールを待つことにした結果、早割の時期が過ぎて予算オーバーしたので陸路に切り替えたのです。
つまりせっかくだから再上映を見てえぞという強欲なオタク精神がプラスに働いたと…強欲で良かったー!!
最後に黄薔薇を3本花屋さんで買って、バスと新幹線を乗り継いで旅程はすべて終了。
あっという間の夢のような時間でした。次は温泉も入るぞ。
ここからは現地に行ったからこその本編の考察。
ヒロ様は東京からどうやって﨑津に帰ったのか。
まず新幹線で東京から福岡に向かい空路で天草に向かうか、新幹線で熊本まで来てから陸路で天草に向かうか、の二択。
陸路は私が行ったバス乗り継ぎルートか、同じ道程をタクシーで行くか、になりますが、どちらも正直傷心の人間が行くには現実的ではないかなと。バスは計画性が必要だし、タクシーは…そもそもあの距離を走るのか?
じゃあ空路なのかな、と思ったところで私があの日知った空の便は不安定ってことがミソになります。
もしかしたらあの時ヒロ様は、飛行機が出るか出ないかある種の賭けをして福岡まで行ったんじゃないか、とか。ダメだったら帰ろう、と思いながら。そう考えるとあのシーンの深みが増すように思います。
バイプリの浜辺のシーンも違って見えるようになりました。
あれだけ海に囲まれた町で幼少期を過ごした人が、不安な時に海を見つめているということ。
エデロ寮に教会があることも数奇だなあと思います。
﨑津教会で買ったポストカードの封筒、裏には聖書の言葉が書かれています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」ヒロ様にとってふるさとは多分、重荷を降ろせる場所なんじゃないか…と考えました。
あとヒロ様のお母さんがあの話をするためにあの
デートスポットっぽさがあるので。つまりあの石段をデートで登れる夫婦からキングが生まれている。納得だぜ。納得なので早くお父さんのこと教えてください。嘘ですやっぱり今のままでいいです。嗚呼複雑なオタク心。
25歳もすこやかであらんことを祈り、この記事は終わりとします。畳む
KOP&神クズアイドルコラボ、最高でした…!
まず8日のエピソードムービーの時点で、シンくんの声を聞けたことにしみじみと感謝してしまい……何年ぶりだろう、って。
何年ぶりになるんですかね?広く開かれた場での撮り下ろしボイスとなるとベストテンが最後?
となれば2年半。2年半……。
9日はプレミア公開でMVを視聴。
作詞家さんどなたですか!?こんな愛しか感じない歌詞すごすぎる!!てかこんなにこちら側に寄せてもらってええんですかほんまに…ありがとうございます…。
フルver絶対聴きたい!って思えました。うまいなあ商売が!!(褒めてます)
今回のこと、何よりも嬉しいのは、6年のうち2年半も(実質)沈黙していたようなコンテンツに、コラボする価値があると判断してもらえたこと。
なんだかんだいってオタクたちが食らいつき続けてたのは無駄じゃなかったのかな。だとしたら本当に報われたようで有難いな。という気持ちです。
あと、現行の何かがなくてもコンテンツが生きていると感じられることへの喜びも。
過去形でも進行形でもない、完了形に成っていく感覚が少しずつ、砂のように降り積もっていきますね。
今月はまだキンプラ&ベストテンのYouTube応援もあるし、梅田のVRフェスもあるし(こちらは多分様子見ですが)、盛りだくさんですね。
先月のバイプリYouTube応援はとても楽しかった。
コメント応援はツイキャス応援を経てかなりこなれてきてるなあと感じました。ツイキャスの声とコメントのハイブリッド加減は画期的だなと思いましたが、個人的にはコメント一本のYouTubeの方が好き。ニコニコからの流れも汲みやすい気がする。これはプラットフォーム自体の差かな。
今月はどのくらい参加できるか分からないんですが、後から見るのもきっと楽しいだろうな。
まず8日のエピソードムービーの時点で、シンくんの声を聞けたことにしみじみと感謝してしまい……何年ぶりだろう、って。
何年ぶりになるんですかね?広く開かれた場での撮り下ろしボイスとなるとベストテンが最後?
となれば2年半。2年半……。
9日はプレミア公開でMVを視聴。
作詞家さんどなたですか!?こんな愛しか感じない歌詞すごすぎる!!てかこんなにこちら側に寄せてもらってええんですかほんまに…ありがとうございます…。
フルver絶対聴きたい!って思えました。うまいなあ商売が!!(褒めてます)
今回のこと、何よりも嬉しいのは、6年のうち2年半も(実質)沈黙していたようなコンテンツに、コラボする価値があると判断してもらえたこと。
なんだかんだいってオタクたちが食らいつき続けてたのは無駄じゃなかったのかな。だとしたら本当に報われたようで有難いな。という気持ちです。
あと、現行の何かがなくてもコンテンツが生きていると感じられることへの喜びも。
過去形でも進行形でもない、完了形に成っていく感覚が少しずつ、砂のように降り積もっていきますね。
今月はまだキンプラ&ベストテンのYouTube応援もあるし、梅田のVRフェスもあるし(こちらは多分様子見ですが)、盛りだくさんですね。
先月のバイプリYouTube応援はとても楽しかった。
コメント応援はツイキャス応援を経てかなりこなれてきてるなあと感じました。ツイキャスの声とコメントのハイブリッド加減は画期的だなと思いましたが、個人的にはコメント一本のYouTubeの方が好き。ニコニコからの流れも汲みやすい気がする。これはプラットフォーム自体の差かな。
今月はどのくらい参加できるか分からないんですが、後から見るのもきっと楽しいだろうな。
22日当日には観てたんですが、浮かぶ感想が多すぎて、整理してたら10日かかりました。
せっかくなのでまだパンフレットは読まずに、自分の考えだけで語っております。
直後は泣きすぎて目が痛かったです。
観終わった後の帰路の風景がなんだかとても愛おしくて…こんな…見慣れた風景が…イクニーーーッ!!!
レイトショーだったもんで夜景で、余計にね。
実写を使ったのはそういうことなんだなと思いました。最後にこちらに向けて投げられる「きっと何者かになれるお前たちに告げる」「愛してる」の言葉を、現実世界の我々が受け止めるための工夫なんだと。
キンプリは「観ると世界が輝いて見える」なんて言いますが、劇場版ピンドラは「観ると世界が愛おしく見える」作品だったと思いました。
キンプリと絡めてもう少し言うと、前後編のボリュームのギャップにプリプラのそれを思い起こしました。こんなに後編で重いパンチ喰らうとは。体感8時間あったわ。
細部について。
○構成
最後の最後、ぬいぐるみを投げたところでようやく時系列の罠に気づき、そういうことか!!と膝を叩きました。これは見事にやられた!
最終話のどこかへ歩いていく2人の姿が印象的すぎて、歩いて辿り着いたのが現実の夜の水族館で、そこから分室を訪れたものかと思っていたら。
はじめからこの物語は最終話の狭間のお話で、ラストの形は何も変わらないんだという。
あの美しい終わりが大きく変わらないことが嬉しかったな。驚きと共に歓喜したポイントでした。
リサイクルという言葉にちょっと釣られすぎてもいたかも。でも好きな作品のことをアレコレ考えては裏切られてワーイ!ってなるのはいつでも楽しい。ヘヘッ…これだから深読みオタクはやめられねえ。
で、また、「この子のお腹は3人で暮らしてる証なんだ」のシーンをきちんと差し込んでいるのがね。丁寧な導線。
ただひとつだけ、この時系列のことについて考えてることがあるのですが、それは蛇足な妄想なので一旦置いておきます。
○テレビ版との比較
前編に比べて後編の方がカットされたシーンがあるな、と気づきやすかったです。ゆりさんと苹果ちゃんのベッド(布団)シーン…どこ…?
しょーちゃんのちょっとシュールな絵本のやつとかもね。あ、でも「キスは消費されちゃう」のセリフは好きだったから惜しかったかも。
その代わりか、重要な話はまるまる入れられてたのかな。大好きで何度も見直したゆりと桃果の話、真砂子様のあのシーン、そして最終話。
大好きな場面がそのままスクリーンで味わえて嬉し涙が流れました。真砂子様、本当に…思い出しても涙が出る。大好きだ。
「世界を救う者」はEDが灰色の水曜日な回だったから、って理由もあって当時何度も見返した記憶があるんですが、今作では初めて二人が並び座って話をするシーンで早くも灰色の水曜日アレンジ劇伴が流れ始めてワシャもうどうしてええんかわからん…ってなってた。※良い意味のノブ
そう、音楽、トリプルHの歌からシームレスに通常の劇伴に繋がっててすごい!ミックスの妙か?と各所で思ってましたが、クレジットで見る限りそこまで含んでひとつの曲のようでしたね。これはサントラ聴きたくなるなあ。テレビ版はサントラまでは手が回ってないけど劇場版は買おう。トリプルHの新曲もあるし。
乗り換えの瞬間は、テレビ版も劇場版もどっちも好きだな!って素直に思いました。好きなシーンの好きな形が増えて嬉しい。
○新規シーンについて
なにはさておき、まずはOP!嬉しかった~~~!!!
これは単純にテレビアニメのオタクとして、劇場版だとEDはあってもOPがないのをたまに残念がっているので、痒いところに手が届いてて嬉しかった。
興奮しててあんまりしっかり覚えてないんですが、2期OPで走る方向を違えてしまった3人が、姿は変われど今度こそ同じ向きに走っていた、そのカットだけは目に焼き付いています。
崩壊する分室からエレベーターの孔を登って脱出していくシーン、迫力があって、ああアドゥレセンスの最後、世界を革命する力を!と叫ぶあそこと同じものを感じるな、と思いました。力強さ。
そらの孔分室は、透明になった存在が行く場所なんでしょうか。となると9話の陽毬はただ死ぬんじゃなくて透明になろうとしてしまっていたのかな(この辺りは明確に言語化するものではなく、肌で感じる部分と解釈していますが)。
そこから脱した兄弟ふたりが再び元の世界に戻り、最終話のラストシーンに繋がっていたと分かります。
"少年が帰った"さらにそのあとで、水族館で目を覚まし光の中また歩いていく。一番大きな物語の変化はここだったわけですが、この追加された本当のラストシーン、とっても嬉しかったです。
テレビ版だけだと解釈が割れていたポイントが明確になったと思いました。
そう、リサイクル、再構築である以上材料は同じで、パラレルワールドでも別の世界線でもないんですよね。そこが嬉しいんだなあ。
その上で、2人はあの世界で透明にならなかったんだよ、陽毬と3人で暮らした証も残ってるからね、と優しく観客に教えてくれたように感じました。
それから、「見つけてもらえる子供になったんだと思って泣いた」と陽毬が語る砂浜のシーン、思わず映画館で爆泣きしましたが、それが新規シーンに繋がってまた大泣きしてしまいました。
子供たちがみんな集ってきてそして…エヴァ。あそこは素直にエヴァだなあと思って良いシーンだと捉えてます。カヲルくんはイクニさんだし。すべてのチルドレンだし。
○そしてなにより
晶馬が苹果に「愛してる」と言って蠍の炎を引き受けた時、手を掴めなかった苹果が、テレビ版では何も言えなかった苹果が……「あたしも」と返してましたね。
これ、これ…10年越しの返答、エモ方面での一番の衝撃でした。もうずっと胸を貫かれています。
再構成、である以上この言葉は、10年経って私達がようやく聞き取れた言葉、なんだと思います。
苹果ちゃんが言えていて、伝えられていて良かった。ただただそう思う。
●
さて、先程「明確に言語化せず肌で感じる部分」と書きましたが、このアニメにはそういう点が非常に多く、下手に論理で解体しようとするとかえって褪せてしまう部分でもあると私は考えています。
ここからは、そういう部分にそういうものだと思った上で敢えて触れていきます。ふんわりとした書き方になりますがご理解ください。
○眞悧について
のっけから彼にスポットが当たって驚きました。
「この世界は箱なんだ」のセリフ、多分、生前の彼はずっと冠葉と晶馬があのとき入っていた箱の中にいて、そのまま生涯を終えてしまったんだろうな。だから飢餓の会。
で、そんな彼が救われるのではないかと前編を見て思っていた私ですが、ダメだったか~。ワハハ。
「呪いのメタファー」であり「亡霊」である以上、もうそういう対象ではないってことかなあと後編では思いました。桃果と同じで。
救われるべきはあのテロを起こして死ぬ前の彼だったのであって、乗り換えバグを経て人間でなくなってしまったそれではないのかなという。
思えばゆりの父親のことからして、ゆりを救うために父親を消しているわけで、父親も一緒に幸せになるとかそういう運命の乗り換え方はできないんですよね、桃果は。
そういう意味では桃果が呪いを生んでしまったことは当然のようにも思うし、あるいは連綿と続く呪いをどこまで遡ればいいのか?という疑念をどこかで彼女が抱いたかもしれないと思えば、始めから呪いという概念は彼女の宿敵であった、とも言える。
だから劇場版でも桃果と眞悧が、あたかもトムとジェリーかのごとく、これからも仲良く喧嘩しますよ、みたいに(少しコミカルに)描かれたのは、却って救いでした。
桃果は全知全能の存在にならずにすむし、眞悧はうん、寂しくないよね。
テレビ版の最終話だと二人はお別れしてしまってたから。
○時系列について
前段から続いた内容になりますが、時系列で考えると「でも私はもう行くわ」のシーンは劇場版の後の可能性もあるんですよ。サンちゃんが箱に詰められた後だから。
あれ?じゃあやっぱり二人はトムジェリじゃないじゃん、ってなりますよね。
そこでひとつ気にかかるのが、桃果の見た目年齢の話でして。
十年前に放映されたテレビ版では桃果の姿は一貫して小学2年生の姿でした。年齢でいえば7~8歳。それが今回の劇場版では突然成長した姿になるんですよね。
最終話のラストシーンで帽子をふたつ持って去ること、劇場版ではマリオ(に貸してた?)帽子を被っていることから、帽子に力を分けていて幼くなっていた姿が完全体に戻った、みたいな考えもあるかもしれないんですが、それにしては桃果の顔つきが幼いなあと思うんですね。同い年のゆりや多蕗よりも幼くてまだまだ少女っぽい。
じゃあ何歳くらいかというと、17~18くらいに見えません?
それで、もしかしたら桃果と眞悧だけはこっちの世界の時間軸にいるのかなあ、って思っちゃったんですよね。
桃果だけは2011年に乗り換えを見届けて眞悧にさよならして、そのままのんびり司書をして過ごしていたけど、10年経った今、メタ的には何かを伝えるため、物語的には乗り換えの脆弱性を見つけて修正作業をするために、再構築に至ったのでは。
なんてね。
キャラデザの都合って言われたらそれで終わる話なんですけど。
○林檎について
これは単純な、テレビ版と劇場版と10年の月日が合わさってようやく自分が気づいたことの覚書になるんですが。
冠葉の箱の中にあった唯一の林檎は、お母さんからのものだったのかなあ。彼の父は高倉父母と同じだと思う。
あと兄弟3人の中で晶馬だけが唯一与えることも与えられることもできていることとか、桃果も乗り換えのたびに運命の果実を渡していたんだよなとか、冠葉や晶馬が林檎を渡したあの時も運命を乗り換えたことに変わりはないんだよなとか、いろいろ。気づいていたことに何度でも気づけることが楽しい。
陽毬が亡くなる朝のシーンが永訣の朝であることに、また気づいたり。多分知っていたけど、ああ、とまた気づく瞬間をもらえて、やっぱり10年後にこれが見られて良かったなあ、と繰り返し思うのでした。
とりあえずはこんなところでしょうか。
またパンフレット読んだり2回目見たりして、書きたいことがあれば書きます。
大事なこと忘れてた。中学時代のしょーちゃんの髪がちょっと長いの、ヤバくないですか?
美ショタは正義です。やめて。すり潰さないで。
畳む
せっかくなのでまだパンフレットは読まずに、自分の考えだけで語っております。
直後は泣きすぎて目が痛かったです。
観終わった後の帰路の風景がなんだかとても愛おしくて…こんな…見慣れた風景が…イクニーーーッ!!!
レイトショーだったもんで夜景で、余計にね。
実写を使ったのはそういうことなんだなと思いました。最後にこちらに向けて投げられる「きっと何者かになれるお前たちに告げる」「愛してる」の言葉を、現実世界の我々が受け止めるための工夫なんだと。
キンプリは「観ると世界が輝いて見える」なんて言いますが、劇場版ピンドラは「観ると世界が愛おしく見える」作品だったと思いました。
キンプリと絡めてもう少し言うと、前後編のボリュームのギャップにプリプラのそれを思い起こしました。こんなに後編で重いパンチ喰らうとは。体感8時間あったわ。
細部について。
○構成
最後の最後、ぬいぐるみを投げたところでようやく時系列の罠に気づき、そういうことか!!と膝を叩きました。これは見事にやられた!
最終話のどこかへ歩いていく2人の姿が印象的すぎて、歩いて辿り着いたのが現実の夜の水族館で、そこから分室を訪れたものかと思っていたら。
はじめからこの物語は最終話の狭間のお話で、ラストの形は何も変わらないんだという。
あの美しい終わりが大きく変わらないことが嬉しかったな。驚きと共に歓喜したポイントでした。
リサイクルという言葉にちょっと釣られすぎてもいたかも。でも好きな作品のことをアレコレ考えては裏切られてワーイ!ってなるのはいつでも楽しい。ヘヘッ…これだから深読みオタクはやめられねえ。
で、また、「この子のお腹は3人で暮らしてる証なんだ」のシーンをきちんと差し込んでいるのがね。丁寧な導線。
ただひとつだけ、この時系列のことについて考えてることがあるのですが、それは蛇足な妄想なので一旦置いておきます。
○テレビ版との比較
前編に比べて後編の方がカットされたシーンがあるな、と気づきやすかったです。ゆりさんと苹果ちゃんのベッド(布団)シーン…どこ…?
しょーちゃんのちょっとシュールな絵本のやつとかもね。あ、でも「キスは消費されちゃう」のセリフは好きだったから惜しかったかも。
その代わりか、重要な話はまるまる入れられてたのかな。大好きで何度も見直したゆりと桃果の話、真砂子様のあのシーン、そして最終話。
大好きな場面がそのままスクリーンで味わえて嬉し涙が流れました。真砂子様、本当に…思い出しても涙が出る。大好きだ。
「世界を救う者」はEDが灰色の水曜日な回だったから、って理由もあって当時何度も見返した記憶があるんですが、今作では初めて二人が並び座って話をするシーンで早くも灰色の水曜日アレンジ劇伴が流れ始めてワシャもうどうしてええんかわからん…ってなってた。※良い意味のノブ
そう、音楽、トリプルHの歌からシームレスに通常の劇伴に繋がっててすごい!ミックスの妙か?と各所で思ってましたが、クレジットで見る限りそこまで含んでひとつの曲のようでしたね。これはサントラ聴きたくなるなあ。テレビ版はサントラまでは手が回ってないけど劇場版は買おう。トリプルHの新曲もあるし。
乗り換えの瞬間は、テレビ版も劇場版もどっちも好きだな!って素直に思いました。好きなシーンの好きな形が増えて嬉しい。
○新規シーンについて
なにはさておき、まずはOP!嬉しかった~~~!!!
これは単純にテレビアニメのオタクとして、劇場版だとEDはあってもOPがないのをたまに残念がっているので、痒いところに手が届いてて嬉しかった。
興奮しててあんまりしっかり覚えてないんですが、2期OPで走る方向を違えてしまった3人が、姿は変われど今度こそ同じ向きに走っていた、そのカットだけは目に焼き付いています。
崩壊する分室からエレベーターの孔を登って脱出していくシーン、迫力があって、ああアドゥレセンスの最後、世界を革命する力を!と叫ぶあそこと同じものを感じるな、と思いました。力強さ。
そらの孔分室は、透明になった存在が行く場所なんでしょうか。となると9話の陽毬はただ死ぬんじゃなくて透明になろうとしてしまっていたのかな(この辺りは明確に言語化するものではなく、肌で感じる部分と解釈していますが)。
そこから脱した兄弟ふたりが再び元の世界に戻り、最終話のラストシーンに繋がっていたと分かります。
"少年が帰った"さらにそのあとで、水族館で目を覚まし光の中また歩いていく。一番大きな物語の変化はここだったわけですが、この追加された本当のラストシーン、とっても嬉しかったです。
テレビ版だけだと解釈が割れていたポイントが明確になったと思いました。
そう、リサイクル、再構築である以上材料は同じで、パラレルワールドでも別の世界線でもないんですよね。そこが嬉しいんだなあ。
その上で、2人はあの世界で透明にならなかったんだよ、陽毬と3人で暮らした証も残ってるからね、と優しく観客に教えてくれたように感じました。
それから、「見つけてもらえる子供になったんだと思って泣いた」と陽毬が語る砂浜のシーン、思わず映画館で爆泣きしましたが、それが新規シーンに繋がってまた大泣きしてしまいました。
子供たちがみんな集ってきてそして…エヴァ。あそこは素直にエヴァだなあと思って良いシーンだと捉えてます。カヲルくんはイクニさんだし。すべてのチルドレンだし。
○そしてなにより
晶馬が苹果に「愛してる」と言って蠍の炎を引き受けた時、手を掴めなかった苹果が、テレビ版では何も言えなかった苹果が……「あたしも」と返してましたね。
これ、これ…10年越しの返答、エモ方面での一番の衝撃でした。もうずっと胸を貫かれています。
再構成、である以上この言葉は、10年経って私達がようやく聞き取れた言葉、なんだと思います。
苹果ちゃんが言えていて、伝えられていて良かった。ただただそう思う。
●
さて、先程「明確に言語化せず肌で感じる部分」と書きましたが、このアニメにはそういう点が非常に多く、下手に論理で解体しようとするとかえって褪せてしまう部分でもあると私は考えています。
ここからは、そういう部分にそういうものだと思った上で敢えて触れていきます。ふんわりとした書き方になりますがご理解ください。
○眞悧について
のっけから彼にスポットが当たって驚きました。
「この世界は箱なんだ」のセリフ、多分、生前の彼はずっと冠葉と晶馬があのとき入っていた箱の中にいて、そのまま生涯を終えてしまったんだろうな。だから飢餓の会。
で、そんな彼が救われるのではないかと前編を見て思っていた私ですが、ダメだったか~。ワハハ。
「呪いのメタファー」であり「亡霊」である以上、もうそういう対象ではないってことかなあと後編では思いました。桃果と同じで。
救われるべきはあのテロを起こして死ぬ前の彼だったのであって、乗り換えバグを経て人間でなくなってしまったそれではないのかなという。
思えばゆりの父親のことからして、ゆりを救うために父親を消しているわけで、父親も一緒に幸せになるとかそういう運命の乗り換え方はできないんですよね、桃果は。
そういう意味では桃果が呪いを生んでしまったことは当然のようにも思うし、あるいは連綿と続く呪いをどこまで遡ればいいのか?という疑念をどこかで彼女が抱いたかもしれないと思えば、始めから呪いという概念は彼女の宿敵であった、とも言える。
だから劇場版でも桃果と眞悧が、あたかもトムとジェリーかのごとく、これからも仲良く喧嘩しますよ、みたいに(少しコミカルに)描かれたのは、却って救いでした。
桃果は全知全能の存在にならずにすむし、眞悧はうん、寂しくないよね。
テレビ版の最終話だと二人はお別れしてしまってたから。
○時系列について
前段から続いた内容になりますが、時系列で考えると「でも私はもう行くわ」のシーンは劇場版の後の可能性もあるんですよ。サンちゃんが箱に詰められた後だから。
あれ?じゃあやっぱり二人はトムジェリじゃないじゃん、ってなりますよね。
そこでひとつ気にかかるのが、桃果の見た目年齢の話でして。
十年前に放映されたテレビ版では桃果の姿は一貫して小学2年生の姿でした。年齢でいえば7~8歳。それが今回の劇場版では突然成長した姿になるんですよね。
最終話のラストシーンで帽子をふたつ持って去ること、劇場版ではマリオ(に貸してた?)帽子を被っていることから、帽子に力を分けていて幼くなっていた姿が完全体に戻った、みたいな考えもあるかもしれないんですが、それにしては桃果の顔つきが幼いなあと思うんですね。同い年のゆりや多蕗よりも幼くてまだまだ少女っぽい。
じゃあ何歳くらいかというと、17~18くらいに見えません?
それで、もしかしたら桃果と眞悧だけはこっちの世界の時間軸にいるのかなあ、って思っちゃったんですよね。
桃果だけは2011年に乗り換えを見届けて眞悧にさよならして、そのままのんびり司書をして過ごしていたけど、10年経った今、メタ的には何かを伝えるため、物語的には乗り換えの脆弱性を見つけて修正作業をするために、再構築に至ったのでは。
なんてね。
○林檎について
これは単純な、テレビ版と劇場版と10年の月日が合わさってようやく自分が気づいたことの覚書になるんですが。
冠葉の箱の中にあった唯一の林檎は、お母さんからのものだったのかなあ。彼の父は高倉父母と同じだと思う。
あと兄弟3人の中で晶馬だけが唯一与えることも与えられることもできていることとか、桃果も乗り換えのたびに運命の果実を渡していたんだよなとか、冠葉や晶馬が林檎を渡したあの時も運命を乗り換えたことに変わりはないんだよなとか、いろいろ。気づいていたことに何度でも気づけることが楽しい。
陽毬が亡くなる朝のシーンが永訣の朝であることに、また気づいたり。多分知っていたけど、ああ、とまた気づく瞬間をもらえて、やっぱり10年後にこれが見られて良かったなあ、と繰り返し思うのでした。
とりあえずはこんなところでしょうか。
またパンフレット読んだり2回目見たりして、書きたいことがあれば書きます。
大事なこと忘れてた。中学時代のしょーちゃんの髪がちょっと長いの、ヤバくないですか?
美ショタは正義です。やめて。すり潰さないで。
畳む
2回目をようやく観て、これ再考の余地がかなりあるな…と思ったので軽くしたため。
・プリンチュについて
私、プリンチュが変貌する直前(桃果が桃にぱっくんちょされたパート)でプリンチュにピングフォースのステッカーが貼られていたことを完全にスルーしていたね…!?
後半の語り始めたプリンチュはもう普通に眞悧が憑依したと思って良さそうかな…とも思いました。そうなってくるとバキュバキュ言ってるとことか踊ってるとことか無性にイラついてくるんですが。
本来の存在のプリンチュがなんなのか、については、桃果のペンギンかマリオさんのペンギンかどっちかかなーと感じました。
陽毬に3号がいることを考えると素直にいけばマリオのペンギンが妥当っぽいんですけど、桃果とずっと一緒にいるところがなー。
ペンギンたちは子供たちの内面を表している、と考えれば……といろいろ続けたいんですけどちょっとその前に本編もう一度最後まで通しで見たいですね。
・運命の輪を閉じることについて
アニメ本編でペンギンたちがゴミ箱から出てきたので、リサイクルされた結果として生まれるのはあのペンギンたちなのかもしれないとか、運命の乗り換えをしてあの世界から消えたけどどこかにいってなにかにならないといけない存在をリサイクルするのがこの映画の目的だとすれば、あの幼い双子ふたりとプリンチュがペンギン1号2号3号になって輪が閉じられる、ってことも考えられるのかなと思ったけどエスメラルダがどこからきたのか分からないのでボツ!
でもまあ輪が閉じられてないとすればあのペンギンの出自、ってのはあるかなと。コミカルリリーフなことも多いペンギンたちのシーンがやけに削られてなかったりするし。
・そもそもペンギンがモチーフなのって
元ネタが鳥の名前だから、ってことなのか……10年越しの気付き。
そしてパンフレット買ったんだけど後編のネタバレあるから読めないっていう。
畳む
・プリンチュについて
私、プリンチュが変貌する直前(桃果が桃にぱっくんちょされたパート)でプリンチュにピングフォースのステッカーが貼られていたことを完全にスルーしていたね…!?
後半の語り始めたプリンチュはもう普通に眞悧が憑依したと思って良さそうかな…とも思いました。そうなってくるとバキュバキュ言ってるとことか踊ってるとことか無性にイラついてくるんですが。
本来の存在のプリンチュがなんなのか、については、桃果のペンギンかマリオさんのペンギンかどっちかかなーと感じました。
陽毬に3号がいることを考えると素直にいけばマリオのペンギンが妥当っぽいんですけど、桃果とずっと一緒にいるところがなー。
ペンギンたちは子供たちの内面を表している、と考えれば……といろいろ続けたいんですけどちょっとその前に本編もう一度最後まで通しで見たいですね。
・運命の輪を閉じることについて
アニメ本編でペンギンたちがゴミ箱から出てきたので、リサイクルされた結果として生まれるのはあのペンギンたちなのかもしれないとか、運命の乗り換えをしてあの世界から消えたけどどこかにいってなにかにならないといけない存在をリサイクルするのがこの映画の目的だとすれば、あの幼い双子ふたりとプリンチュがペンギン1号2号3号になって輪が閉じられる、ってことも考えられるのかなと思ったけどエスメラルダがどこからきたのか分からないのでボツ!
でもまあ輪が閉じられてないとすればあのペンギンの出自、ってのはあるかなと。コミカルリリーフなことも多いペンギンたちのシーンがやけに削られてなかったりするし。
・そもそもペンギンがモチーフなのって
元ネタが鳥の名前だから、ってことなのか……10年越しの気付き。
そしてパンフレット買ったんだけど後編のネタバレあるから読めないっていう。
畳む
パラキスと天禁クロノス2話の感想さくっと。ネタバレ含む。
「Paradise Kiss」単行本で一読しました。
ご近所物語よりもクリエイターとはどういうものか、ということを深く描いている感じ。
モデルさんも表現者ではあるんだろうけど創る人ではなくて、そのどうしようもない溝を恋愛のスパイスとして物語が展開してて、非常に楽しかったです。
ジョージとイザベラの幼少期のエピソードが出てきた瞬間にいやこれはここ強すぎるでしょってなったので終わり方には正直納得でしたね。あれ強すぎんか?
ラストの貸しコンテナのシーンが美しすぎて、物語のラストってのはこうでなくっちゃな!!!と興奮してしまった。
あと、家庭環境によるいろんなねじれが見えるたびにRLが脳内をよぎり、ヒロ様の絶対アイドルってのはほんと天職だよなとしみじみとした。
ねじれと言えば、いつも常識的なツッコミを入れてるように見える嵐が唯一(かな?)人としてやっちゃいけないことの一線を越えてるのってなかなかにヘビーだよな、キャラデザとして。
子供の頃はNANAのドロドロについていけなくて読むのやめてしまったんだけど今なら楽しめるかなあと思いました。
天禁クロノス2話。
いやミカちゃん燃やしててワロタ。ワロタとしか言いようがなかった。この子何も変わって…ない…!
ベールの人はやっぱりジブリールでしたね。なんで起きてるのかとかなんで出てきたのかサクサク説明してくれてありがたい。紗羅はどうしたんだろう?
実は本編の段階から天使の魂のアレコレの理屈をよく理解できてないので全然予想つかない。
ウリーがさらりと出てきてずっといてくれてて嬉しかったです。ウリー大好き。お前だけだよ安心して見てられるのは。
ドンちゃんがDQNネーム三兄弟なのいい。こういうところで簡単にキャラが掴めるのってすごい。ハデ兄好き。
なんとなく2話にして一気にアクセルかかってきたような感じがしました。展開もだけどネームの感じが? ページめくってて知ってるノリだな~ってなるの本当に嬉しいです。畳む
「Paradise Kiss」単行本で一読しました。
ご近所物語よりもクリエイターとはどういうものか、ということを深く描いている感じ。
モデルさんも表現者ではあるんだろうけど創る人ではなくて、そのどうしようもない溝を恋愛のスパイスとして物語が展開してて、非常に楽しかったです。
ジョージとイザベラの幼少期のエピソードが出てきた瞬間にいやこれはここ強すぎるでしょってなったので終わり方には正直納得でしたね。あれ強すぎんか?
ラストの貸しコンテナのシーンが美しすぎて、物語のラストってのはこうでなくっちゃな!!!と興奮してしまった。
あと、家庭環境によるいろんなねじれが見えるたびにRLが脳内をよぎり、ヒロ様の絶対アイドルってのはほんと天職だよなとしみじみとした。
ねじれと言えば、いつも常識的なツッコミを入れてるように見える嵐が唯一(かな?)人としてやっちゃいけないことの一線を越えてるのってなかなかにヘビーだよな、キャラデザとして。
子供の頃はNANAのドロドロについていけなくて読むのやめてしまったんだけど今なら楽しめるかなあと思いました。
天禁クロノス2話。
いやミカちゃん燃やしててワロタ。ワロタとしか言いようがなかった。この子何も変わって…ない…!
ベールの人はやっぱりジブリールでしたね。なんで起きてるのかとかなんで出てきたのかサクサク説明してくれてありがたい。紗羅はどうしたんだろう?
実は本編の段階から天使の魂のアレコレの理屈をよく理解できてないので全然予想つかない。
ウリーがさらりと出てきてずっといてくれてて嬉しかったです。ウリー大好き。お前だけだよ安心して見てられるのは。
ドンちゃんがDQNネーム三兄弟なのいい。こういうところで簡単にキャラが掴めるのってすごい。ハデ兄好き。
なんとなく2話にして一気にアクセルかかってきたような感じがしました。展開もだけどネームの感じが? ページめくってて知ってるノリだな~ってなるの本当に嬉しいです。畳む
数時間経ち前編より少し咀嚼が進み、うっかりパンフレットの存在を失念していたことにも気付きました。
また行くからいいもん…。
最初に鳥肌が立ったのはプリクリ様のバンクでした。
何度も見たこのバンクが劇場で!この音圧!という興奮。
次に鳥肌が立ったのはプリンチュペンギンのピンクのリボンが髪のように揺れたとき。
空の孔分室なのにいないあいつ、陽毬の回想にまつわるシーンなのにいないあいつ、随所随所で「いないこと」で存在を主張していたまさに呪いのような存在が、ずっとそこにいたことに気付かされたとき。
いや~~~~~このシーン、本当に、久しぶりの良い衝撃をもらいました。最高の体験をありがとう。
ROCK OVER JAPANの歌声にプリンチュペンギンの声が混ざってることはすぐわかったんですが、今思い返すと何を混ざっとんねんお前はと言いたくなりますね。
そもそも「プリンチュ」な点で怪しく思うべきだった。いや思ってたんですけどね。やっぱり呪いといえば王子様。そうだろイクニ。やったねウテナ様。高倉父の声優は子安!気が狂う。
いやでも、眞悧=プリンチュではないとは思ってます。ペンギンだし。1号2号3号エスメラルダに連なる存在…だよね。多分。
それって結局なんなのさと言われたらわからないんですけれども。
そんなプリンチュが冠葉に「特にお前」と言うのはやはり、冠葉が陽毬の王子様になってしまったからなのか。
正確には「ウテナのような王子様」かな。
何かを犠牲にして得た何かは呪いも同時に生むから、それで出来上がった世界は間違っている。あるいはその時生まれた呪いが世界を壊してしまう。だから間違っている。
ということなのかなあと、最後のプリンチュの台詞からぼんやり思いました。
それから「運命の輪を閉じなければならない」という言葉。
輪といえばピングドラムの輪。冠葉から晶馬が受け取り、晶馬が陽毬に与え、そして陽毬が冠葉に渡したそれは綺麗な輪となりました。
ですがそれとは違う「運命の輪」とは。
乗り換えた運命が環状線になってない…つまり山手線に行け、…ってコト!?
地下鉄から脱出しろという意味かなとも感じました。モチーフ的な話しか掴めないですね。
物語的にはまあ、運命の輪を閉じるように言ったのは桃果なので、乗り換えそびれちゃった眞悧をなんとかしようってことなのかなあ…とも思いますけど。
ラストのラストに満を辞して登場する辺り、最重要人物だとは思いますし。
ウテナでもアドゥレセンスでも暁生さんは救われなかったもんな…(すぐウテナの話にするな)
や、でもやっぱそうだってこれ…あきおのための映画だよこれ多分……
桃果が桃に食われた?時プリンチュが怯えてたように記憶してるんですけど、あれは何だったんだろう。もう一回見てから考えたいです。
そう、桃果、動きと声がついてようやく「大人になった桃果だ…!!」って感動できました。胸が熱かった。
プリクリ化した桃果があの桃果とはまた少し違う存在のようにも感じたので、帽子とは…というのもまた考えたくなりましたね。
生存本能とかかな。
10年経って改めてピンドラを見ていて、自分の感じ方が少し違っていて、その面でも楽しめました。
晶ちゃんの後ろで2号が虫を殺している時、彼がどんな気持ちでいるのか、実感を伴って伝わってきたり。
冠葉の「晶馬はお子様だな」「俺じゃダメなのかよ」という言葉が重く感じたり。
苹果が恋心を自覚した日に陽毬が倒れたことの意味を考えたり。
それこそ、物語の中で「愛してる」を言えるようになった晶馬のように、私も10年で成長したのかもな、と思えました。
畳む
また行くからいいもん…。
最初に鳥肌が立ったのはプリクリ様のバンクでした。
何度も見たこのバンクが劇場で!この音圧!という興奮。
次に鳥肌が立ったのはプリンチュペンギンのピンクのリボンが髪のように揺れたとき。
空の孔分室なのにいないあいつ、陽毬の回想にまつわるシーンなのにいないあいつ、随所随所で「いないこと」で存在を主張していたまさに呪いのような存在が、ずっとそこにいたことに気付かされたとき。
いや~~~~~このシーン、本当に、久しぶりの良い衝撃をもらいました。最高の体験をありがとう。
ROCK OVER JAPANの歌声にプリンチュペンギンの声が混ざってることはすぐわかったんですが、今思い返すと何を混ざっとんねんお前はと言いたくなりますね。
そもそも「プリンチュ」な点で怪しく思うべきだった。いや思ってたんですけどね。やっぱり呪いといえば王子様。そうだろイクニ。やったねウテナ様。高倉父の声優は子安!気が狂う。
いやでも、眞悧=プリンチュではないとは思ってます。ペンギンだし。1号2号3号エスメラルダに連なる存在…だよね。多分。
それって結局なんなのさと言われたらわからないんですけれども。
そんなプリンチュが冠葉に「特にお前」と言うのはやはり、冠葉が陽毬の王子様になってしまったからなのか。
正確には「ウテナのような王子様」かな。
何かを犠牲にして得た何かは呪いも同時に生むから、それで出来上がった世界は間違っている。あるいはその時生まれた呪いが世界を壊してしまう。だから間違っている。
ということなのかなあと、最後のプリンチュの台詞からぼんやり思いました。
それから「運命の輪を閉じなければならない」という言葉。
輪といえばピングドラムの輪。冠葉から晶馬が受け取り、晶馬が陽毬に与え、そして陽毬が冠葉に渡したそれは綺麗な輪となりました。
ですがそれとは違う「運命の輪」とは。
乗り換えた運命が環状線になってない…つまり山手線に行け、…ってコト!?
地下鉄から脱出しろという意味かなとも感じました。モチーフ的な話しか掴めないですね。
物語的にはまあ、運命の輪を閉じるように言ったのは桃果なので、乗り換えそびれちゃった眞悧をなんとかしようってことなのかなあ…とも思いますけど。
ラストのラストに満を辞して登場する辺り、最重要人物だとは思いますし。
ウテナでもアドゥレセンスでも暁生さんは救われなかったもんな…(すぐウテナの話にするな)
や、でもやっぱそうだってこれ…あきおのための映画だよこれ多分……
桃果が桃に食われた?時プリンチュが怯えてたように記憶してるんですけど、あれは何だったんだろう。もう一回見てから考えたいです。
そう、桃果、動きと声がついてようやく「大人になった桃果だ…!!」って感動できました。胸が熱かった。
プリクリ化した桃果があの桃果とはまた少し違う存在のようにも感じたので、帽子とは…というのもまた考えたくなりましたね。
生存本能とかかな。
10年経って改めてピンドラを見ていて、自分の感じ方が少し違っていて、その面でも楽しめました。
晶ちゃんの後ろで2号が虫を殺している時、彼がどんな気持ちでいるのか、実感を伴って伝わってきたり。
冠葉の「晶馬はお子様だな」「俺じゃダメなのかよ」という言葉が重く感じたり。
苹果が恋心を自覚した日に陽毬が倒れたことの意味を考えたり。
それこそ、物語の中で「愛してる」を言えるようになった晶馬のように、私も10年で成長したのかもな、と思えました。
畳む
生存戦略してきました。
上映後即書いてます。ホヤホヤの感想だよやったね。ケロ。
フリック入力じゃ追いつかないと思ってキーボード持ってきて正解だった。
何言ってもネタバレになると思うのでさっさと閉じます!
ちなみにインタビュー類は全然追えていないので制作側の意図は全く知りません。
何から触れれば良いのやら…。
上映後、映画館を出て、許されるなら座り込んで頭を抱えたかった。
総集編としてアニメ版の各話をまとめつつ、新規パートが入り混じる、という構成自体は予想のうちでした。
ただ新規パートの内容というか、演出がまず予想外だった。
冒頭から実写映像にアニメの絵が入りまざり、その中に双子がいたから、あああの世界から消えたから違う世界にいる演出としてなのかな…と思った。
あと映画館にアニメ見にきて実写映像見せられるとどうしてもエヴァがよぎりましたね。
でも後半部分で実写の世界に入り混じるのは双子だけでなく、どんどん増えていって、ピクトグラムのモブもやってきていて、なんだかわからないけど不安で切ない気持ちが掻き立てられました。
この部分については後編まで観ないとわからなさそうかな…。
とりあえず音楽!
既存シーンの劇伴が大きく変わっていることでシーンの見え方、感じ方が全然違っているのがまずひとつ印象的でした。
例えばトリプルHが鯉の生き血を採ろうとするところ。
元は音楽もあってギャグとして見れていたのが、前倒しに切ない劇伴(曲名わからないにわかで申し訳ない…)が流れることでこの後のことが早々察せられて、失われた楽しい思い出のように見てしまうんですが、でも映画を観に来る観客のほとんどはその後のことは知っているので、その心情としてはその劇伴の変え方は理に適ってるなあと唸ったり。
カエル多蕗のシーンもシリアス感増してましたね。一本の映画として観ると終盤で気持ちが盛り上がっているところですしね。
なおかつ、苹果ちゃんの本心が吐露される大事なシーンであることが、アニメ版との違いを考えることでより浮き彫りになるような感覚がありました。
アニメ版との違いという点で先に触れておきたいの、お団子頭の陽毬がテレビのダブルHを見るシーン。
そもそも9話が好きな回すぎて9話のシーンが出るたびに身構えてしまったんですが、ここが一番エグかった。
アニメ版では眞悧の問いかけに極めて理性的にひまりが答えるのに対して、あまりにも素直な双子の「どうして?陽毬がかわいそうだよ」という言葉が……あまりにも残酷で。
陽毬の内面って本編終盤まで全然描かれないけど、この9話は心のうちのかなり深いところを視聴者に見せていて(エレベーターだしね)、だからこの後の話をもっと見たい!って思えたりもした。今回の劇場版だとそれがないんだな、って分からせられた。
苹果ちゃんの言う「双子たちだって独りよがりなんじゃないのか」の受け取られ方も変わりそうというか。
ちなみに9話、ほんとにピンドラの中で一番繰り返し見た回なもんで、のっけから陽毬を双子に置き換えたような画面が続き、脳みそバグるかと思いました。
返却日3月20日、本日4月29日でああああ!ってなったり。公開日に来て良かった……。
バグりすぎて最終的に2011年当時の自分が埋めたはずの墓から起き上がってショタ晶ちゃんマジ美少女すぎるペロペロって唱えてて困りました。
ところどころの字幕芸は逆にギャグを追加してて良い塩梅だった。
M=マタニティのところ笑った。勢いよ。
音楽の話に戻ります。
観る前、かなりすごく「Dear Futureが聴きたい!」って思ってたんですが半ば諦めてました。新主題歌があるなら旧主題歌は流さないかなとか、流したとしてもOPのノルニルだけかなとか、でもそれだけでも聴きたいから楽しみだな…とか思ってたら両方聴けて最高でした。
劇場内に響き渡るナッキーの声が聴ける令和が来るなんて思ってなかったな。
驚いたのが映像。公式MADみたいになってましたけど終盤のシーンも混ざっててもう見せちゃうの!?ってなった。やっぱりこの映画はアニメ版を見た人に向けて作られてるんだなと確信したポイントかも。
初回見て唯一泣いたのはなんとトリプルHの新曲が流れたシーンでした。
ダディーズ・シューズくるかと思ったのに!
だってそれだったら綺麗な親子のシーンで済ませられるじゃないですか。なのによりによってファクトリー、あまりにもど直球な歌。
美しく残酷な父子の思い出模様、それとシンプルにファクトリーが新曲なことへの感動とかが混ざって泣いてしまいましたね。
まだまだ続きそうなので一旦切ります。後半は新規シーンにまつわるアレコレについて。
畳む
上映後即書いてます。ホヤホヤの感想だよやったね。ケロ。
フリック入力じゃ追いつかないと思ってキーボード持ってきて正解だった。
何言ってもネタバレになると思うのでさっさと閉じます!
ちなみにインタビュー類は全然追えていないので制作側の意図は全く知りません。
何から触れれば良いのやら…。
上映後、映画館を出て、許されるなら座り込んで頭を抱えたかった。
総集編としてアニメ版の各話をまとめつつ、新規パートが入り混じる、という構成自体は予想のうちでした。
ただ新規パートの内容というか、演出がまず予想外だった。
冒頭から実写映像にアニメの絵が入りまざり、その中に双子がいたから、あああの世界から消えたから違う世界にいる演出としてなのかな…と思った。
あと映画館にアニメ見にきて実写映像見せられるとどうしてもエヴァがよぎりましたね。
でも後半部分で実写の世界に入り混じるのは双子だけでなく、どんどん増えていって、ピクトグラムのモブもやってきていて、なんだかわからないけど不安で切ない気持ちが掻き立てられました。
この部分については後編まで観ないとわからなさそうかな…。
とりあえず音楽!
既存シーンの劇伴が大きく変わっていることでシーンの見え方、感じ方が全然違っているのがまずひとつ印象的でした。
例えばトリプルHが鯉の生き血を採ろうとするところ。
元は音楽もあってギャグとして見れていたのが、前倒しに切ない劇伴(曲名わからないにわかで申し訳ない…)が流れることでこの後のことが早々察せられて、失われた楽しい思い出のように見てしまうんですが、でも映画を観に来る観客のほとんどはその後のことは知っているので、その心情としてはその劇伴の変え方は理に適ってるなあと唸ったり。
カエル多蕗のシーンもシリアス感増してましたね。一本の映画として観ると終盤で気持ちが盛り上がっているところですしね。
なおかつ、苹果ちゃんの本心が吐露される大事なシーンであることが、アニメ版との違いを考えることでより浮き彫りになるような感覚がありました。
アニメ版との違いという点で先に触れておきたいの、お団子頭の陽毬がテレビのダブルHを見るシーン。
そもそも9話が好きな回すぎて9話のシーンが出るたびに身構えてしまったんですが、ここが一番エグかった。
アニメ版では眞悧の問いかけに極めて理性的にひまりが答えるのに対して、あまりにも素直な双子の「どうして?陽毬がかわいそうだよ」という言葉が……あまりにも残酷で。
陽毬の内面って本編終盤まで全然描かれないけど、この9話は心のうちのかなり深いところを視聴者に見せていて(エレベーターだしね)、だからこの後の話をもっと見たい!って思えたりもした。今回の劇場版だとそれがないんだな、って分からせられた。
苹果ちゃんの言う「双子たちだって独りよがりなんじゃないのか」の受け取られ方も変わりそうというか。
ちなみに9話、ほんとにピンドラの中で一番繰り返し見た回なもんで、のっけから陽毬を双子に置き換えたような画面が続き、脳みそバグるかと思いました。
返却日3月20日、本日4月29日でああああ!ってなったり。公開日に来て良かった……。
バグりすぎて最終的に2011年当時の自分が埋めたはずの墓から起き上がって
ところどころの字幕芸は逆にギャグを追加してて良い塩梅だった。
M=マタニティのところ笑った。勢いよ。
音楽の話に戻ります。
観る前、かなりすごく「Dear Futureが聴きたい!」って思ってたんですが半ば諦めてました。新主題歌があるなら旧主題歌は流さないかなとか、流したとしてもOPのノルニルだけかなとか、でもそれだけでも聴きたいから楽しみだな…とか思ってたら両方聴けて最高でした。
劇場内に響き渡るナッキーの声が聴ける令和が来るなんて思ってなかったな。
驚いたのが映像。公式MADみたいになってましたけど終盤のシーンも混ざっててもう見せちゃうの!?ってなった。やっぱりこの映画はアニメ版を見た人に向けて作られてるんだなと確信したポイントかも。
初回見て唯一泣いたのはなんとトリプルHの新曲が流れたシーンでした。
ダディーズ・シューズくるかと思ったのに!
だってそれだったら綺麗な親子のシーンで済ませられるじゃないですか。なのによりによってファクトリー、あまりにもど直球な歌。
美しく残酷な父子の思い出模様、それとシンプルにファクトリーが新曲なことへの感動とかが混ざって泣いてしまいましたね。
まだまだ続きそうなので一旦切ります。後半は新規シーンにまつわるアレコレについて。
畳む